胡乱な世界の中でただ一つ、固いもの。
蕩けてゆく世界の中でただ一つ、確固たる。
だからね――
043:ただ前を向いて歩いて、何かを掴み取るために
更衣室のロッカーの扉を閉める。ライが所属する部署の機材や部屋は借りものであるから多少の傷みはありふれる。戦闘機のシュミレーションや調整をするために専用のスーツを着用していた。渡すべきレポートも渡したし、新パーツだというシュミレーションもこなした。やることが無くなった。することがなくなるとライは市井へ紛れた。私服を着てしまえばただの一般市民だ。『特派』と侮蔑をこめた呼び名を持つ部署は鷹揚で、ライが街へ繰り出す理由も話してある。ライは軍服へ着替えながら自嘲する。借りものばかりである。気付いた時、ライは背負っているべき過去もはにかむような思い出も、何も持っていなかった。ライと言う名前さえつきつめれば何であるか知れたものではない。長い名前の略称や愛称なのかさえ判らない。ただ己は「ライ」と呼ばれていたし自分でも自分を「ライ」だと思っている。それだけだ。
喫煙と休息を兼ねた場所へ顔を出す。何人かが煙草を喫みながら噂話に花を咲かせる。そういうところからでもいいから己に関する何かがあればいいのにと思う。渇望するようにライは記憶探しをするものの、その態度はどこかしら熱心さとは違っていた。見つかればよし、見つからなくとも何ともない。ないのだから欲しいのだろうと思う。けれど断片的に甦る気配や、他者から見た己の様子や態度、判断を総合的に考えると思いだした刹那に狂い死にしそうな気がした。思い出さない方がよかった。そんな方向へ進んでいるような気がして仕方がない。同僚となったスザクが言うように武道をたしなんでいたとしたら、それの勘がびりびりと告げる。
オモイダサナイホウガイイヨ――
人の煙ばかり吸うのも癪であるから談笑に夢中になっている一団に入室の挨拶回りがてら放り出されている箱から一本ずつ失敬する。どうせ好きな銘柄などのこだわりはないから何でも良しとする。不味いと思ったことはないからこの体は事前に喫煙経験でもあったか。ライターを借りて火をつけると一団からつかず離れずの位置を取る。噂話がききたいから声が聞こえる位置に腰を下ろした。咥えた煙草をむぐむぐと揺らして喫む。口から吸って鼻から煙を吐くことはしない。どうすればそうなるかも判らないし器用に輪をつくることもできない。一度偶然鼻から煙を噴いた際の鼻腔の反逆には辟易した。自由に湿らせることのできない部位であったからむやみに水を飲んだりうがいを繰り返したりする羽目になった。
「あれ、いけないよ、ライ。こんなところにいるなんて」
雑談を楽しんでいた一団がピタリと黙った。そのままそそくさと出ていく。それを気にするでもなくライの隣へ腰を下ろしたのは枢木スザクだ。紅茶色の髪は毛先がくるくる巻いた癖っ毛で、鶯色の双眸はきょろりと聡明さを示すように大きい。
「…僕が来たら駄目だったかな。話とか、してた?」
この部屋にいるのはライとスザクだけだ。ライは笑って首を横に振った。話なんかしてないから大丈夫。所属が『特派』で名誉ブリタニア人、つまりイレヴンと名前を変えられた日本人であるスザクは所属する団体の中でも微妙な位置にいる。血統としては軽んじたい。だが彼の戦績はなかなか派手で、ブリタニア軍の功績を目覚ましく上昇させている。その二律背反がスザクの周りから人を遠ざけた。籍を置く学校では嫌がらせは減ったと言うが、軍属としてのスザクの扱いはよいとは言えない。
「それより、どうしたスザク。僕に用かい?」
言われてスザクは初めてあぁ、と手を打った。
「セシルさんがロイドさんを怒っててね。君に連続であんなにシミュレーションさせて! って。だからメディカルセンターで体のチェックをちゃんとしてほしいって伝えてくれって言われたんだよ」
「ふぅん」
「それなのに煙草を吸ってるなんて。よくないよ。僕たちは軍人だけど学生でもあるんだから」
スザクの小言を耳に通しながらライは茫洋と思った。
世界は胡乱だ。記憶喪失という状態に対してライとて何もしなかったわけではない。記憶を探しながら記憶喪失状態に関する情報も集めた。その中に一つ、無視できない項目があった。
記憶喪失状態から脱した場合、記憶を喪失していた期間の記憶を失くしているパターンも存在する。
つまり僕はもう一度僕を失いかねない。こうしてスザクと話したりセシルさんの面白い料理をふるまってもらったりロイドさんと戦闘機に関する話も、何もかもを忘れてしまうのかもしれない。
「――ッて、聞いてる? ライ?」
「……なに?」
短くなった煙草を灰皿で潰し消した。スザクは呆れたように肩を落としたがすぐに繰り返した。
「シュミレーションでも体力は消耗するから、チェックを受けた方がいいよって言ったんだよ」
「スザク、僕が記憶探しをしてるのは知ってるだろう。僕自身も記憶喪失という状態に対してどうすればいいか、とか調べてみたんだけどさ」
スザクはうんうんと頷いて相槌を打つ。スザクは人の話を全部真面目に聞いて取る。それだけ真摯に向き合ってくれているのだろう。だからこそライはその言葉を口にした。
「僕の記憶が戻ったら、僕の記憶がなかったころの記憶を失くしてしまうかもしれないんだ」
えーっと、とスザクが咀嚼している。
「つまり、それは学園のみんなや、僕やセシルさんやロイドさんを忘れちゃうかもしれないってこと?」
「呑みこみが早くて助かるけど。そういうこともあるらしいんだ。だから僕は…どうしたらいいか、判らない」
碧色の双眸が潤んだように眇められる。軍服を着たスザクはまだ幼い。軍と言う組織の重みを制服に背負っている。だからライがこれ以上スザクに負担をかけるわけにはいかない。ライは笑って茶化した。
僕は又僕を失くすかもしれないんだなんて笑っちゃうよな
「笑わない!」
がんとしたスザクの言葉にライの方が茫然とした。スザクは眉を寄せて考え込むように目を逸らしつつも椅子に落ちたままのライの手を握って離さない。
「また君がいなくなるなんて。君を一度しか知らない僕だけどでも、君を失くすなんて絶対に嫌だ! 失くさせない! ロイドさんやセシルさんにも協力してもらったっていい、土下座でも何でもする! 爵位も要らない!」
「スザク、ごめんな」
変な話してすまない。ライはへらりと笑って亜麻色の髪を揺らした。スザクは噛みつくように、駄目だ駄目だ、だめだそんなの! を繰り返す。
「スザク」
スザクが黙った。俯けていた顔を上げるときっとした決意の表情が見えた。幼く見えるスザクのその顔は戦闘の時にも似て。見とれてしまう。
「ライ」
このきっと強い目が好きだ。ふっくらとした唇や血色良く灼けた肌。巻き毛のようにくるくる点を向く紅褐色の髪。類を見ない戦闘力。その何もかも。全てが。枢木スザクと言う、同級で同僚な、君が――
「好きだ」
スザクがためらいなくそう言った。ライの目が驚きに見開かれていく。スザクの両手がライの肩をがしりと掴む。白兵戦も得意とするスザクの方が力も強いし体が出来上がっている。
「好きだよ、愛してる。だから、君が僕を忘れるなんて赦せないんだ。だからね」
にこり、と。スザクは人懐っこい笑みを見せた。
「君が僕を忘れたら、僕はもう一度君の前で、「枢木スザクです、よろしく」って挨拶するよ。そして君に愛してもらえるように頑張る」
身動きの取れないライにスザクはぎゅうと抱きしめる。力が強い。骨格が軋むような気がした。それでもその強さはひどく心地よくて、それに甘えてしまいたくなる…――
「ライ、記憶をもう一度失くしてしまうかもしれないのは僕も怖いよ。知りあった君に忘れられてしまったらと思うと気が狂いそうだよ。愛してるんだから。でもね」
抱擁は解かれスザクの眼差しは真っ直ぐにライを射抜いた。
「怖がっていてもだめなんだ。前に進もう。記憶を探そうよ、ライ。君の一部だったものなんだ、今のままでいたいのは判るよ。記憶が戻ることで僕らのことを忘れてしまうのが怖いんだろう。でも、もう一度知りあえるかもしれない。だから、前に進もうよ。そこに立ち止まっちゃだめなんだ。怖くても辛くても、泣いたって転んだって、何をしてもいいんだ。何かしないと始まらないよ。君が倒れそうなったときには僕が、支えてあげる」
あは、はっはははは。ライは声を上げて笑った。スザクはおかしなことを言ったかい? と不思議そうに小首を傾げている。スザクの好意はきっと本物で、だから言えるのだ。己が忘れられる可能性のある状態まで君を助ける。怖くなんかない。
君が僕を忘れたら、もう一度僕は君の前で自己紹介をして、付き合いをつなげていくんだから――
「スザク、君は何かを掴んでいる男なのかもしれないな」
黒の騎士団の様な戦績ではなく。ゼロのようなカリスマ性でもなく。ただ素朴に、あなたが好きです。あなたが好きだから僕は僕に出来ることをする。当たり前の様であることほど難しく。それでも僕は、君が。
「僕も君が好きだ、スザク」
ぱぁっと花が咲くようにスザクの表情が満面の笑みになる。
「もうそれだけで十分だよ! 君が僕を忘れても僕は君の所へ行く! だから、だから、ライ。自分のなくしたものを探すのをやめないで」
こくりと頷くとスザクは安堵したような笑みを見せた。そのままぎゅうっと抱きしめられた。ライの方からおずおずとスザクの背を撫でる。かたちよく並んだ脊椎と程よくついた筋肉。肩甲骨は腕を上げているから天使の翼のように開いている。こんな体のどこに、と思うほどのスザクの力は強い。その強さが心地よかった。地盤である過去を失くした己など砂上の楼閣だ。それでもスザクは構わないと言ってくれた。
「過去のある君も過去のない君も、僕は好きになるよ」
しがみついてライは啼いた。スザクの首筋に顔をうずめて落涙する。スザクはライに愛情とそれ以上のものをくれた。
君を裏切らない。だから怖がらないで?
過去のあるなしなんか関係ない、僕は君が好きだから。
たとえもう一度自己紹介する羽目になってもね!
《了》